リヒテルズ直子

オランダから地球市民社会と教育を語る

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モンテッソーリ校でのフィロソフィー・レッスン

授業はこんな風に進んだ。

 まず、マリアンヌ先生が古い写真を取り出して子ども達に見せた。

「これはね、私のおじさんが持っていた写真で、多分30年ぐらい前の写真だと思うわ。ね、見えるでしょう、ここに水色の自動車があるわね。これは私のおじさんが持っていた自動車でベルタという名前なのよ。」

 それから次にもう一枚の写真を取り出した。

「今度はこの写真よ。これは最近撮った写真。おじさんが持っていたのと同じ自動車が見えるでしょ。ベルタよ。でも、今は真っ赤な色に塗り替えられているわね。形は古いけど、ペンキが新しくなってピカピカしてるでしょ」

 子ども達が二つの写真の中の自動車を見た後、マリアンヌ先生は、「ベルタのレントゲン写真よ」と言って、ボンネットの中のエンジンや補助タイヤなどが透けて見える、写真の中の車と同じ型の自動車が白黒印刷された紙をそれぞれの子に渡した。そうして、「さあ、みんな、それぞれ2色のカラーペンをとって、本当のベルトの部分と、本当ではない部分とを二つの色で分けて塗って見てくれる?」と言った。

 なんだかよくわからない感じの子供達は、それでも、色を塗り始めた。いつまでも塗れないでいる子供もいる。

 マリアンヌ先生は、子ども達が少々冗談交じりでいろいろな発言をしても、このベルタのレントゲン写真に関するものである限りは、無理に抑えずに自由に発言させている。

 ある男の子が「どうして自動車に名前がついているの」というと、ほかの子もワイワイ騒ぎ出した。そのうち、色を塗りながら誰かが「全て外から見えるものは新しいものだ!」という。

 喋ったり、他の子どもの様子を見たり、どうしたものかと迷っていたりする子どもが色々といる中で、マリアンヌ先生はまた「どれが本当のベルタで、どこからが嘘のベルタなのかしら」と声をかける。

 そのうち、子ども達の発言が増えてきた。考えることを刺激され、脳が活性化してきた、という感じだ。それに対するマリアンヌ先生の対応は、「あなたはどう思う?」「なぜそう思うの?」と聞き返すだけだ。

「外見が変わると本物ではなくなるのかしら」というマリアンヌ先生の言葉に子ども達が反応する。

「中身は変わらないよ」

1人の女の子が、活発に発言をし始めた。考えていることを言わずにおれないという感じだ。他のこの中には、ずっと黙っているだけの子もいる。

「人間だって大きくなるに連れて外見は変わる」

隣の仲良しの女の子がこう言う。

「ちょっと待って、でも私は違うと思うわ、外見が変わってもしかすると行動も変わるかもしれないけど、私は私でしょ」

最初の女の子が

「でも、成長すれば変わるじゃない、、、」

それに対して2番目の女の子は、うまく言えなくてじれったいという表情で

「ウウーン、あなたは、私のいうことがわかってないようね、、、」

と少し苛立って他の子に助けを求める、、、

正面に座っていた男の子が、

「人間は外見と一緒に成長するのかな」

といった。それからいきなり、臓器移植の話を持ち出し、

「他の人の臓器が移植されると自分は自分でなくなるのかな」と言い出した。

他の子が、

「脳みそが変わらなければ大丈夫だよ」

という。

隣の子が

「脳みそを変えることもできるのかなあ」

と少し不確かな表情で発言する。そして、

「もし脳みそが変えられるのだったら、その人はその人でなくなるのかな」

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ここにきて、それまで、哲学授業なるものがそれほど大切なものなのかどうか、いくばくかの懐疑心を抱きながら見学にきていた私は、すっかり心を揺さぶられていた。授業が始まってまだ15分だった。子ども達が、こんなにも深い実存的な問いを出し合っている、、、

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授業はさらに続いた。

臓器移植の話を持ち出した男の子が

「心臓が変わっても人は変わらないけど、脳が変わればその人は変わると思う、、、同じ人ではなくなるから」という。

その話を聞きながら、くだんのおしゃべりな女の子が、今度はこんなことを言い出した。

「子どもがまだ赤ん坊だったら脳はまだ発達していないから、まだその人に成り切っていないということかなあ、、、、だって、人間は外見だけでなくて、成長とともに、ものの見方も変わるわけでしょ」

残念なことに、時計を気にしているマリアンヌは、この議論をここで打ち切らざるを得なかった。わたしは、せっかく話が佳境に入ってきたのに残念だな、と思いつつ、そうか、こういう深く考えるという訓練を、これまでの学校はほとんど子ども達にやらせてこなかったのだな、と改めて思った。

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授業が始まる前、頭でっかちの私は、マリアンヌ先生と話をしながら、

「哲学の授業が目指しているのは、<良心の自由>を育てるということなのでしょうか」

などといかにもわかった振りの問いかけをしていた。それに対するマリアンヌ先生の答えは、

「ううん、それもそうだれど、もっと単純に、子ども達に物事を深く考える練習をさせることだと思っています」

というものだった。

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マリアンヌ先生は最後の10分ほどの時間を使って、子ども達を二人ずつ組みにさせ、一枚ずつ紙を配って、「なんでもいいから哲学的な問いを話し合って出して見ましょう」と問いかけた。哲学的な問いを出すために考えておかなければならないことは次の3つのことだ、とも言った。

1.その問いには何か決まった答えはないこと

2.8語以内で表現すること

3.その問いについては、自分なりの考えがあること


そうして、しばらくののち、10人の子ども達が5つの「問い」を出してホワイトボードに書いた。1、2人の子どもが落ち着きがなかったためか、全体として集中できる雰囲気になっていなかったのが残念に見えた。

「植物はどうやって生きている?」

「ラブって何?誰かに愛されるってどういうこと?」

「宇宙はどのくらい大きい?」

「世界にはどれくらいたくさんバナナがあるの? なぜそれぐらいだと思うの?」

「喧嘩って何?」

という問いだ。哲学的問い、とは言い切れないものもあるかもしれない。それは、子ども達がまだ考えるということに慣れていないのか、それとも、十分な時間をかけることができなかったからではないか、と思う。


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 こうして授業は終わった。

 短い時間で、子ども達をこんなに思索に導くことができるんだ、という感動の一方で、もっと時間をかけて、もっと静かな環境を用意して、もっと丁寧なやりとりができたら、もっと深い議論に導くことができただろうに、という少し残念な気持ちも残った。だが、それは、教員の質を問うというより、学校という場の制約のせいではないか、と強く感じた。

 たとえば、これが、モンテッソーリの学校ではなく、イエナプラン校だったらどうだっただろう。毎日顔を合わせ、毎日、サークル対話を繰り返しているイエナプランの教室だったら、子ども達は、日頃から信頼関係にあるグループの仲間の子ども達と、もっと率直に、もっと集中した会話ができていたのではないか、、、と心の中で思った。


ーーー

授業の後で、マリアンヌ先生と振り返りながら意見交換をした。

「美術室でやるというのは、あまり理想ではないのよ。子ども達が気が散るものがいろいろとあるのでね」とマリアンヌ先生はいった。

「予想していた通りの展開だった?」と聞くと、

「どんな風に展開して行くかは、グループによっても異なるし、やって見なければわからない。とてもよく発言する子もいれば、ずっと黙っている子もいる。でも、ずっと黙っている子が、むしろ深く考えていることは良くあって、一週間後にまだ前の週のテーマをずっと抱え続けている子もいるし、今までほとんど発言をしなかった子が、この授業での問いをきっかけに、自分のクラスに戻って担任の教師にとてもたくさん話しかけた、ということも聞いたことがある。中には、子どもの発言があまりに深くて、こちらが動転してしまうほど感動することもあるのよ、、、、」と言った。


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マリアンヌ先生の授業は、自分で創案したものではない。研修の間に学んだことを使い、そこで用意されている授業案をもとにやっているという。けれども、それが授業の中でどう発展して行くかは、蓋を開けて見なければわからないのだ。大切なのは、教員として、「何か答えを出そうとしたり」「自分が期待している方向に子ども達の考えを仕向けて行こう」としないことなのだそうだ。

正直に言って、この授業を見て、私は、「これなら誰にでもやれるな」と思った。ルールさえきちんと押さえていれば、特別の技術や知識は必要ではないのだ。ソクラテスがどういったとか、ニーチェがどういったか、ということを自分で知っている必要もない。教員は、ひたすら、子ども達の「問いを引き出し」その問いからも一歩深く考えを進めるための「問い返し」をして行けばいい。けれども、それが、案外教員には難しいことなのであるのかもしれない。なぜなら、私たちは、子どもの時から「学校の先生はなんでも知っていなくてはならない。学校の先生は、子どもの質問に答えを出せなければいけない」という思い込みの元に育ってきているから、、、


 マリアンヌ先生は、私に見せようと思って持ってきたと言って、バッグの中から、小さなカードの入ったパッケージを取り出して見せてくれた。かなり使い込んで少々擦り切れた感じのパッケージだ。トランプカードくらいのカードが50枚入っている。一枚一枚のカードには可愛らしいイラストの横に短い「哲学的問い」が書かれている。例えば、こんな問いだ。

「人は泥棒を愛してしまうこともできるのかな」

計算問題ができなくて黒板の横にしょんぼり立っている少年の絵の横には「罰は効果があるのか」とある

「どのドアも開けることのできない鍵は、鍵と言えるのか」

「暴力を使わずに喧嘩をすることは可能か」

「だれかが未来を盗むことは可能か」

「もしも太陽が一日出てこなかったら世界はどんな風に変わるだろう」

「どうして時間はそんなに大切なの」

「天国は誰のもの?」

「物語にはいつも始まりがなければならないのか」

「絶対に変わらないものってなんだろう」

「死ぬことが美しい時ってどんな時?」


もう、参ったなあ、という感じだ。

そうか、哲学って、ソクラテスやカントやヘーゲルの理論を学ぶことではないんだ。哲学って、「考え続ける」ことなんだ!とやけに子どもっぽい感傷に浸ってしまう。

ーーー

家に帰って早速、子ども向けの哲学教材を探して注文。

授業で使える子ども達への「問いかけ」を集めた、少し大型のカードも注文した。

添付された可愛らしいマニュアルには下記のように書かれていた。


*考えるための筋肉

哲学の素晴らしさは、あなたの頭以外には、ほかに何も必要ではない、ということです。知識さえも必要ではない。知識をあまり持っていないということは、それ自身、利点でさえあるのです。なぜなら、何かがどういう仕組みになっているのかを自分自身で考えることができるし、そうすることで、まさしく「考えるための筋肉」をトレーニングすることができるからです。

*哲学の利点

哲学は、(サークルを作っての)対話の中身を充実させるための一つの特別なやり方だと言えます。そして、それは、子ども達にとてもたくさんの刺激を与えるものです。子ども達の語彙は増え、口頭での言語能力が育って行きます。子ども達は、お互いに対してよく耳を傾けるようになり、お互いに問いかけ合うようになり、自分が考えていることを言葉に表すことを学び、自分自身の考えを表現し、自分の意見をまとめる力をつけるようになります。さらに、子ども達は、お互いを他の形では得られない違った形で知るようになり、お互いについてもっと深く理解するようになります。そして、これが何より重要なことなのですが、子ども達の自己肯定感が高まるのです。なぜなら、そこには、間違った回答は存在しないからです。

*子ども達の哲学を、大人はどう指導すれば良いのか?

最も大切なルールは、「ただ問いかけることだけをし、答えを与えないこと」です。子ども達は自分自身で深く考えなければならないのであって、大人が答えを与えるとその途端に子ども達は考えることをやめてしまいます。それは無理もないことで、学校でも家でも、子ども達は、大人が答えを与えるものということにすっかり慣れてしまっているのです。それから、大人は、好奇心を持った態度で接し、ソクラテス的な態度を取ることが大切です。それはどういうことかというと、自分自身も生命(人生)というものがどういう風な仕組みになっているのかについては、子どもと同じくらいほとんど何も知らないということを自覚することを意味しています。つまり、大人である私たちでも、全ての答えを知ることはできないということを自覚することです。しかも、子ども達が、大人のあなたを深く考えさせるきっかけになるようなことを言うことすらあるのです。つまり、一言で言うならば、子どもたちを本気で真面目に待遇しなさい、ということです。

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どうだろう、、、学力発達はこれからますます教材群のデジタル化によって教師の力量に頼らなくてもできて行く時代がくる。でも、それでも、学校は必要だ。なぜなら、私たちの脳は、他の人の脳を必要としているからだ。私たちは、自分が成長し続けるために、自分の問いかけと同様に、他の人からの問いかけを必要としている。子ども達は、「生きる」とはどういうことかを学ぶために、お互いに交流することを必要としている。経験ある大人との交流も必要としている。そして、大人もまた、新しい時代を生きる、私たちが残す世界を受け継いで行ってくれる若い世代の深い思考と、彼らが私たちを目覚めさせてくれる新鮮なものの見方を、私たち自身の「生」が意味のあるものになるために、必要としている。