リヒテルズ直子

オランダから地球市民社会と教育を語る

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日本のママたちの多重苦

  •  公共の場での子供
日本から来た人たちがまずすぐに言葉にするのは、「オランダ人って優しいですね」という言葉だ。外国人らしき観光客が切符の買い方がわからなくてウロウロしている、ホテルの入り口が見つからなくて困っている、、、そんな時、オランダではすぐにだれかが声をかけてくれる。

そのくらいのこと日本人だってやってますよ、そう言われるかもしれない。でも、バスや電車の中ではどうだろう。

こちらのバスや電車には、車椅子やベビーカーをそのまま載せベルトで固定できる場所が設けてあるのが普通だ。昼間の停留所には、ママやパパや、時にはおじいちゃんやおばあちゃんらしき人が、幼児の手を引き乳児をベビーカーに載せてバスがくるのを待っている光景がよく見られる。そして、そういう時、バスが到着すると、それまでは口も聞かずに、耳にイヤホンを差し込んでそばで一緒にバスを待っていたジャンパー姿のお兄ちゃんだとか、背広にネクタイ、アタッシェケースを持った紳士とかが、さっと間髪を入れずにベビーカーを抱えてあげる光景が珍しくない。助けてもらう方も、「当たり前」という顔で、特別に恐縮するそぶりを見せるわけでもなく、一言「ありがとう」というだけだ。もちろん、目的地で降りる時にも、そういう客がいたら、前か後に降りる乗客がさっと手を出すのが普通だ。明らかに誰か他の人の手を必要としているわけで、そんな時に、助けられる方は「申し訳なさそうな」態度を取る必要もないし、助ける方も「ああ面倒だな」という表情を見せることも、九分九厘ない。

  • 子どもが悪いのは母親のせいではない
公共の場で泣き叫ぶ子、暴れる子が少ないのも目立つ。というより、ある程度、普通の声で話したり声をあげたりすることについては、周囲が寛容に認めている。でも、人混みだというのに、母親の関心を引こうとして大声で泣き叫ぶとか、暴れまわるという子どもは少ない気がする。それは、多分、普段の生活の中で、家庭でも保育所でも小さい時から自立的に行動することを仕向けられ、何でもかんでも「大人がしてやる」という育て方ではないからではないか、と思う。普段からそうしていれば、母親に抱いてもらいたいとせがんだり、泣いてわがままを言うといったことはなくなり、周りの目を気にしながら、自分でできることをし、周りの迷惑にならないようにという練習もできるようになるものだ。

ところが、日本の場合、子どもを「自立」させることが家庭も社会もとても苦手だ。苦手というより、「自立」させなければいけない、という心の向きそのものがないのではないかとすら思う。あまり「自立」的な人間になってしまっては困る、とさえ思っているようだ。だから、母親がいるときには周りにかまわず大声で甘え、いないときには、ただ羊のようにおとなしく何を言っても反応しないような子どもがやたらと多くなる。

しかし、これは、日本の母親のせいなのだろうか? 直接的にはそうであるのかもしれないが、そのような育て方をすることが社会の規範になっているのであれば、問題は、社会のあり方の方にあるような気がする。であるにもかかわらず、バスや電車の中や人混みの中にいる人たちは、他人の子どもがうるさいと嫌な目つきで非難し、当てこすりの表情で母親を見たりするが、そういう態度はどうしたものだろう?

ましてや自閉症症候群やディスレクシア、知的障害や精神障害などは、決して母親のせいなどではない。もちろん、父親のせいでも、子ども本人のせいでも決してない。

先週訪れた発達障害児の親たちが全国組織として作っている「バランス」という機関で、自らも発達障害児の母でありその職場の職員である女性がこう言った。

「長い間、『彼は自閉症だ』『彼はディスレクシアだ』(he is)という言い方を世の中の人たちはしてきました。でも、私たちは、『彼は自閉症を持っている』『彼はディスレクシアを持っている』(he has)と言うべきなのです。子ども達は、自身が病気や障害なのではなく、病気や障害という問題を持っている普通の人なのですから」と言っていた。

言葉にして言われてみれば当たり前のことかもしれない。しかし、私たちは、どれほどしばしば他人に対して、見かけや障害や性的性向によってレッテル貼りをしているだろう。私がたまたま女性として生まれてきたことも、日本人として生まれてきたことも、それは、自由な選択の結果ではない。女性であるから都合の良いこともあれば悪いこともあるし、日本人であるから都合の良いことも悪いこともあるが、それは、社会が決めることだし、私自身には選択の余地のなかったことだ。生まれてきた子どもが障害を持ってきたことや、自分自身に障害があることに対して社会がレッテルを貼るのは、不当だし不条理なことだ。

それなのに、日本は、世の中のことが、とりわけ学校や保育所のような場所が、「画一的な指導」で「平均」を「標準」として取り扱う社会であるため、そこからずれてしまう子は「合わない子」「難しい子」「面倒な子」というレッテルでくくられてしまう。そして、母親は、その不条理と一人で戦わなければならない。

  • 女を守ってくれない「家」という意識
それならば、せめて家族ぐらいは世の中の不条理に苦しむ母親を守ってくれているかと思いたいが、日本の「家」制度には、なぜか嫁の立場を守るよりも嫁にすべての責を負わせようとする伝統が強い。「子宝」「石女」と言った言葉は、嫁の人権などを無視して、「家系」が脈々と続きさえすれば問題はない、という価値観から来たものであるに他ならない。今時、「家」だとか、「家系」にこだわる人なんてそんなにいませんよ、と言われるかもしれない。しかし、自分の家庭がどうであろうとも、こうした通念は、天皇一族をめぐる三流雑誌の醜聞記事や、大河ドラマと称する歴史番組等を通して、日本人の心に知らず識らずのうちに染み込まされた考え方だ。
そして、それは、発達障害や、何か平均的な子どもとは違うものを持って子どもが生まれてくると、子どもと母親を常に追撃し続ける「通念」となる。
こうして、子どもが不条理にも持つこととなった問題に真正面から取り組むのではなく、安易に母親のせいにするという社会的な意識は、子どもの問題を社会全体で解決して行こうという意欲を世の中の人から安易に剥ぎ取ってしまう。どこかで偶然にそういう問題を抱えた人に出会って「かわいそうに」「気の毒に」と思うことはあっても、みんなでこの社会の仕組みを変えていかなければ、この人たちに人間としての尊厳のある生活はできない、と考える人が一体何割くらいいるだろう。多くは「日本は西洋とは文化が違うからね」と「文化」のせいにして、翌日には忘れてしまうことなのだ。「文化culture」とは、元来、所与の「生来nature」の条件に対して、人間が人間らしく尊厳を持って生きるための「創意工夫」のことであるはずだが、「文化」を所与のものとしてまるまる肯定し、それを改革する意欲のない人があまりに多いことに驚く。それもまた、どこかでずっと、「所与の伝統的文化」を維持し、その枠組みから踏み出さないことが愛国者である、との教化が繰り返し繰り返し時間をかけ場所を変えて重ねられた結果であることに、一体何人の人が気づいているのだろう。

  • 画一的な施設と学校
かつて夫の仕事で日本に小さな子どもを連れて暮らしていたという経験があるオランダ人が、こういって笑っていたのを思い出す。
「娘がいっていた幼稚園ではね、何かお絵描きをするときにはね、みんな同じ塗り絵の紙をもらって、先生が取り上げて見せる同じ色のクレヨンをみんなで持って塗り絵を始めるのよね。そんなことして何が面白いのかしらね、、、」
「息子は中学になったら衣料品店の広告のアルバイトが山ほどきておこずかいに書くことがなかったわ。でも、広告紙に出るモデルがなんで金髪のうちの子じゃなければいけないのか、ってちょっと苦笑していたわ」
「娘が中学になって電車で毎日インタナショナルスクールに通っていたのだけど、電車の中で、見ず知らずの人が髪の毛を触るのがとても嫌だと言っていたわ。髪の毛が赤いから目立つのは仕方がないけど、それにしても外国人には人の感情がないとでも思っているのかしら」

画一的な指導をする施設や学校は、ただ、そういう指導がどの子にも全く合わないものだというだけではなく、それと同時進行で、「他者と違っていてはいけない」という意識を、子ども達に無意識の間に植え付けて行く。他のことは異なるニーズを持つ我が子にもっと関心を寄せてほしいと思う親は学校でも取りつく島がなく、言い募れば「モンスターペアレント」のレッテルを貼られる。
せめて、一人一人に丁寧な教え方をしてくれる学校が欲しいと思っても、授業を分刻みで計画し実施することを教師が求められる公立学校では、対応してくれる例はごく稀。唯一の希望は、高い授業料を払わされる私立校か塾に行くしかない。しかし、そういう場所も、顧客集めの主眼は良い学校への入学率が先行し、本当に特殊なニーズを持つ子どもへのケアは行き届かないか、エビデンスを伴わない、理論的根拠を持たない独りよがりの「教育まがい」に終わることも少なくない。

つい最近テレビで報道されたドキュメンタリーの中で、オランダのある教員が「子ども達を平等に待遇するということは、不平等に指導することなのです」と言い切っていた。まことに、一人一人の子どもは、障害を持つ子だけではなく、皆すべて一人一人異なる学習のニーズを持っている。それを見極め、一人一人に違う教え方、違う教材を使って教え方を変え、学習をサポートするのが教員たちの仕事だ。
 
オランダでは、乳幼児の託児施設も、学校も、重度障害の施設も、障害が重いほどたくさんのケアを受けることができる。経済不況で資金が軽減されてきているとはいえ、一度北欧並みの高い福祉を達成したこの国では、人々の意識が違う。一人で生きていくことのできない人のケアは、社会全体が面倒を見るものだ、という考えが徹底している。資金が削減されても、最も重い患者への補助は最後まで切られることはない。
学校は軽度障害児を普通学級に受け入れるために様々な工夫をするが、それができるのは、学校に多くの自由裁量権を認める「教育の自由」があり、ひとりひとりの子どもの発達をモニターする仕組みを国がしっかり作っているからだ。
学校も施設も、重度障害の子どもほどかける金額は多く、特殊学校で勉強している子ども一人当たりにかかる国の費用は、普通児の約8倍と言われている。障害の背景には、家庭の社会経済的事情が遠因となっている場合もあり、障害者や障害児は皆が皆オランダ人ばかりではない。むしろ、移民や、場合によってはまだビザの取得が確定していない「不法滞在」の難民の場合もある。けれども、「すべての子どもには発達の権利がある」という前提で、難民の子供は入国後すぐに学校に受け入れられる。

日本に来ているブラジルやフィリピンなどからの移民の子どもたちは、どこでどのように受け入れられているのだろう。もしも発達障害を持っていたら、日本人の子どもと同じように平等な待遇を受けているだろうか。

  • 休めない、薄給のパート
きっと、四六時中だれかがそばについていなければならない子どもを授かった母親は、働いて収入を得ることも諦めざるを得ないのだろう。況してや休暇に出ることなど想像もできないのではないか。収入がなければ高い施設料を払う施設にも入れない。母親は、閉鎖された家の中で、人間関係を断たれ、子どもと24時間対面関係におかれ、心も体も疲弊していくのに違いない。
夫との関係が壊れたり、夫の家族から疎外されることになる原因には、そうした閉塞感があるという。誰がこういう母子を救ってくれるのだろう。自治体や相談所に相談に行くことはできても、結局全体のSystemと社会一般の意識が開かれていなければ、持続可能性の高い解決には繋がらないのではないか。
パートで働くことが当たり前のオランダでは、たとえ週に20−25時間のパート就労でも税金納入と引き換えに社会保障を受けられる。社会保障費が障害児の託児費用を賄ってくれるし、どんな学校に行きどれほどの国の補助金が入っているとしても、普通児と同様に無償で教育を受けられる。
子育てや家事のために親兄弟に迷惑をかけるのは嫌だ、というのは、オランダでは、尊厳のある人間の生き方の一つの選択肢として「社会が容認している」。すべての家庭が、余裕も理解もある家庭ばかりではないし、それが理由で母と子が孤立してしまうことはオランダ社会では許されないことなのだ。
だから、障害児を持っている親たちは、夫婦協力して、共稼ぎをしながら、家事や育児を分担できるだけではなく、重度の障害を持つ子どもを24時間施設に預けることも可能だし、その子を一時的に安心できる施設に無料で預けて、家族で1ヶ月のバケーションに行っても、誰一人咎め立てする人はいない。


要するに、、、
オランダ社会は、自分の責任ではない不条理を抱えている人々を決して網の目からこぼれ落とさせることのないセイフティネットを幾重にも張り巡らしている社会なのだ。

そして、それは、誰よりも子どもが、そして周りの大人たちが一人残らず幸せに生きていくために、社会が少しずつ力を出し合い協力しているということだ。そして、そういう福祉の力に自分だけは決して世話になることはない、という保証はどこにもない。

だからこそNo limits No excusesと堂々と言える。国が公的責任を果たさず、ボロボロの網で人々を網から振り落とし、「自己責任」と放言して見せる国とは根本が違う。