リヒテルズ直子

オランダから地球市民社会と教育を語る

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権利は使わなければ奪われる

 学校では、子どもたちは、現場実習を中心に訓練を受ける。単なる職場訓練というよりも、むしろ、オランダ語をきちんと話す、話している相手から目をそらさない、相手を尊重する、時間を守る、約束を守る、自分の意見をきちんという、などといった生活態度の指導が中心のように見える。

 ベテランの校長先生は、「かつてこういう学校では、壁に囲まれた教室で子供達を叱咤激励して指導していた。しかし、今はそうではない。子ども達自身がどんな生き方を求めているのか、子ども達の強さはなんなのか、それを発見し、自分にふさわしい道を選べるようにしてやることが私たちの仕事だ」そう言って、手首にはめたブレスレットに刻まれたこの学校の標語を見せてくれた。そこには、No limits, No excuses (限界はない、言い訳もない)と書かれていた。社会の、おそらく底辺に滞るこうした低下層の家庭からきた子ども達は、とかく自分の置かれた状況に閉塞感を感じやすい。標語は、「それを突き破れ、頑張る気なら君には自由がある、その代わり、できないことに言い訳を言うな」という意味だ。

 現実に、この学校に通っている子ども達の中には、母子家庭や学歴の低い親の家庭も多い。オランダの文化に同化することもなく、かといって、母国の文化を背負って生きているという自覚があるわけでもなく衝動的に子どもと触れ合い、子育てに取り立てて深い想いを寄せる余裕もなく、学校教育にも関心がほとんどないという家庭がほとんどだ。そういう家庭からきた、しかも、知能指数も低くて学力ではけっして他の子供達に勝てる見込みのない子ども達に、自らの可能性に気づき、それを伸ばせと呼びかける。

 なんと、この学校では、クラスあたりの人数が12人と極めて少ない。通常クラスの半分以下だ。できない子供だから落ちこぼれさせるのではなく、できない子供だから手厚く教育に手をかけ将来不満を持って生きていくことがないようにしている。

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 入り口を入ってすぐのホールに、不思議な形の木のようなオブジェがあった。生徒達は、毎年、この木に、自分の願いを紙に書いてかけるのだそうだ。

 去年、その中に、「弟が死んでしまったがうちが貧しいので墓石を買えなかった。いつか弟の墓石を買いたい」と書いた女の子がいたという。その子のために、校長先生は生徒たちに呼びかけ、みんなで墓石を買うお金を集めた。他にも、一家でパキスタンから移住してきた生徒がいた。しかし、オランダ政府からのビザが降りず、母親だけまだパキスタンに残っている。その子のために、学校をあげて、母のビザが降りるように陳情しているという。

 政治的なことだから、外国人のことだから、と「見て見ぬ振りをして済ませる」のではなく、こうして積極的に運動を起こすのは、自分たちが「教育者」として子供達から見られているという自負があるからだろう。


 校内の見学を終えると、校長先生は、生徒たちの実習現場を見せるから、と私たち訪問者を市場へと誘った。学校からものの五分の距離には、ヨーロッパでも最大級の露店市場がある。市場の品物やそこを行き交う人の姿を見ていると、それがわずか自宅からトラムで10分ほどの場所にあるオランダの街だとはとても思えない。どこか、熱帯のアラブの都市にでも来たのかと錯覚するほどだ。

 そこで、面白い一幕があった。

 市場で実習している生徒たちと挨拶を交わし私たち訪問者に紹介しながら私たちと一緒に歩いていた校長先生が、市場の一角の花屋の前で立ち止まった。花の栽培と輸出では世界に誇るオランダだけあって、まだ立春が終わったばかりだというのにチューリップやバラがいっぱいだ。校長先生は、たくさんの色とりどりの花が並べられた店先から、奥に向かって、実習中の女生徒に明るく声をかけ、「真紅のバラを3本包んでくれ」と言った。訪問者の私たちにプレゼントしてくれるつもりだったらしい。

 すると、手にペットボトルのドリンクを持っていたその女生徒が「ノー、私今休憩中なのよ」とすかさず断った。私は一瞬、「ああ、校長先生気の毒に、いいところを見せたかっただろうに」と心の中で思ったが、校長先生は、そんなことは気にもしていないかのように、店主の60絡みのおじさんに、「じゃあ、おじさん、バラを3本お願い」と言ったのだった。あとから出てきた店主の奥さんは、この学校の生徒たちが、市場の実習を通して仕事を学んでいる姿はなかなかいいものだ、とお世辞を言っていた。「色んな職種があるから、あの子はこれが向いていそうだ、この子はこっちかな、と思うのよ」という意見は、お世辞だけでもなさそうだった。

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 実を言うと、この視察は、発達障害を持つ子ども達の母親支援についての調査をしている日本の研究者グループのものだった。日本では、何か障害を持つ子どもの親は、四六時中、学校に呼び出されて自分の子どもの「普通ではない」行動に「説明」を求められたり、かといえば、そういう子どもを預けて仕事に出かける制度も不十分なため、夜も昼もなく一人で奮闘し、やがては疲れ果て、しばしば夫婦仲を引き裂く原因ともなり、社会から孤立して行くことが多いといわれる。そういう母親をエンパワメントするには何をすれば良いのか、オランダの事情を見て見たい、それが訪問者たちの視察目的だった。

 しかし、いく先々で、オランダでは、子どもも大人も、制度から人権を保証され、人としての尊厳をしっかりと守られていることを目の当たりにして驚くのだ。子どもたちの障害が大きければ大きいほど、その子たちを預かる学校や託児施設には、普通以上の資金が投入される。経済がどんなに不況になっても、最も障害が重い子たちの福祉内容に手がつけられるのは一番最後のことだ。生活保護を受けている家庭が苦しむような法改正はまずやらない。母親の負担が大きくなりすぎて家庭生活が崩れてしまうと、ひいては子供の成長に悪影響が出るからと、ソーシャルワーカーたちが率先して母親に、子どもを施設に預けることを進めてくれる。不幸な母親の元で子どもが育つと、子供の成長がいびつになるから、と子供達の成長に対しては社会全体が責任を持っている。施設では、平均的な家庭では考えられないほどに広く清潔な部屋が与えられ、毎日介護人がつき、教育学的にもしっかりと考慮された環境が整えられる。子どもの成長は、専門家が観察して記録し、どんな障害があったとしても、発達が人よりどんなに遅かったとしても、発達を刺激する手を控えることはない。秘められた可能性が埋もれることのないように様々な刺激と方策で少しでも本人が自律的に、そして、自分の選んだ生き方ができるようにと引き出してくれる。

 家族が長期のバケーションに出かけるのも人としての権利だからと、重度の障害を持つ子供達をバケーションの期間しっかり安心して預けられる施設もある。家族が低収入に苦しむことのないよう、父親だけではなく母親が働くことは当然のことと考えられ、障害児の親でも両親は普通の夫婦と同じように共稼ぎ家庭が多い。要するに母親が、日本のように「罪悪感」に苛まれ続け、パートの収入だけを頼りに孤独と不安の中で密室で子育てをする都いった状況は社会が認めない。それは、クオリティライフとは、最もそれが得られにくい人々にクオリティを保証する社会であって初めて実現するものだ、ということを人々が規範としてしっかり心に持っているからだ。

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 安倍政権は経済成長戦略の一つに、なんと「残業代ゼロ」を認める範囲を広げるとのたまわっている。年収1000万円以上の高収入世帯や、労働組合との話し合いがついた企業では、残業代を出さなくても「残業」を強制できるようになる、などという乱暴な施策が日本ではもしかすると実現することになるらしい。

 ふと、花屋の店先で校長先生の注文に向かって「私は今休憩中なの」と堂々とのたまわった、恐らくは移民家庭の子だと思われる14、5歳の女生徒のことが頭に浮かぶ。

 そう、持っている権利は「使わなければいけない」のではないのか。有給休暇を取らず、また、返上した休暇分の手当ての要求もせずに働いたり、残業代が出なくても顔色ひとつ変えずに働くのは、実は、自分の持っている権利を返上し、人として生きるという尊厳を手放していることなのではないのか。

 権利は使わなければ取り去られるのではないのか、、、

 日本人の権利。労働者でも人間としての尊厳のある生き方をする権利、自分が信頼し任せられると心から思う政治家を選ぶ権利、自分の子どもを他とは異なるユニークな存在として育てる権利、日本人は、こうした権利を行使しているだろうか。あまりにお人好しにすぎているのではないのだろうか。それが、結果として、周りの人たちの権利を剥ぎ取り、未来の世代の権利をも剥ぎ取っていることに、一体どれほどの人が気づいているのだろう。

 No limits No excuses

 いや、確かに、日本人はうまくいかないことがあるとすぐ他人のせいにしてしまう「言い訳の好きな人たち」がやたらに多い。「甘え社会」と認めてしまった挙句には、もうどうすることもできないのかもしれないけれど。